主担当として任されるようになった。
上司や先輩が同席しない商談が増え、
メールやチャットも、自分の名前でやり取りする場面が多くなる。
相手からの問いに、その場で返すこと。
判断を先送りせず、自分の言葉で伝えること。
そんな場面が、少しずつ日常になっていく。
仕事の進み方が、大きく変わったわけではない。
ただ、これまで誰かが横にいた場所に、
自分ひとりで立つ時間が増えただけだ。
それでも、
どこか落ち着かない感覚が残る。
提案の内容は、これでいいのだろうか。
この返し方で、相手に誤解は生まれないだろうか。
専門的な話題になったとき、
自分はどこまで理解できているのだろうか。
誰かに聞こうとして、
一度、手が止まる。
「これくらいのことで相談していいのか」
そんな考えが浮かび、
もう一度、画面を見直す。
結局、そのまま返すこともある。
あとから振り返って、
あの聞き方でよかったのか、と考えることもある。
大きな出来事が起きているわけではない。
ただ、
自分の判断で進める場面が増え、
その分、考える時間が静かに長くなっている。
「本当にこれでいいのか」
その問いが、
はっきりした形を持たないまま、
仕事の合間に残り続けている。
この感覚は、
経験の問題なのか。
知識の問題なのか。
それとも……
まだ言葉にならないまま、
今日もひとつ、仕事を終える。
今回のお話のきっかけは、
最近、主担当を持ち始めたIT企業の営業職のクライアントさんとの
コーチングセッションでした。
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第2章|不安の理由を、決めなくてもいい
この状態にいるとき、
ぼくたちは、つい不安の理由を探し始めることが多くなります。
経験が足りないのだろうか。
専門知識が足りないのだろうか。
そう考えることで、
頭の中が少し整理されたように感じることもあります。
理由が言葉になると、
いま感じているものを扱いやすくなるからかもしれません。
経験も知識も、あった方がいい。
もちろん、それが影響している場面もあるでしょう。
ただ、この段階で
答えをひとつに決めなくても、
仕事そのものは止まりません。
わからないまま進むやり取りもあれば、
確認しながら形になっていく提案もある。
すべてが整ってから動き出すわけではなく、
動きながら少しずつ整っていく場面もあります。
不安があるというだけで、
何かが足りていないと結論づけなくてもいい。
理由を急いでまとめなくても、
次の一手は、そのまま続いていきます。
まだ整理しきれていない状態で、
仕事の前に立っている。
それは、特別なことではありません。
そうした時間を通りながら、
自分なりの関わり方が、
少しずつ形になっていくこともあります。
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第3章|それでも、すでに起きていたこと
不安や戸惑いが続いている一方で、
実際の仕事は、日々進んでいた。
商談の場面で、
相手の反応に小さな違和感を覚えることがある。
言葉の選び方や、表情の変化。
はっきりした指摘ではないけれど、
「何かが噛み合っていないかもしれない」と感じる瞬間。
その違和感を、そのままにしない。
あとでメモに残したり、
チャットで共有したりする。
自分だけで抱え込まず、
エンジニアや上司に投げてみることもある。
「ここ、どう思いますか」
「こういう反応があったのですが」
そうやって状況を渡すと、
別の視点が返ってくる。
技術的な補足や、
別の切り口からの整理。
そこから、提案の形が少しずつ見えてくる。
本人は、
それを特別なことだとは思っていなかった。
前に出て説明するわけでもない。
即答できる知識があるわけでもない。
だから、自分はまだ足りていない、
そんな感覚の方が強かった。
けれど振り返ってみると、
いくつかの動きは、確かに繰り返されていた。
違和感に気づくこと。
状況を言葉にして共有すること。
人と人をつなぎ、
考えを行き来させること。
それは、
誰かの代わりをしていたわけでも、
補助に回っていたわけでもない。
ただ、
その場に必要な役割が、
自然とそこで果たされていた。
前に出ることだけが、
仕事の進め方ではない。
そうした感覚が、
言葉になる前のかたちで、
すでに働いていた。
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第4章|整い始めた理由
セッションの中で、ひとつの変化がありました。
それまで上手く言葉にならなかった強みが、
少しずつ言葉になっていく。
細かい違和感に気づけること。
状況を言葉にして、周囲に共有できること。
エンジニアと相談しながら、考えを形にしていけること。
彼女は、それらを
「まだ足りない自分の裏側」にあるものとしてではなく、
すでに自分の中にあるものとして言語化しました。
特別なスキルを身につけたわけではない。
知識が急に増えたわけでもない。
ただ、
何ができていて、
それをどう使ってきたのかが、
自分の言葉で表現できた。
そして、もうひとつ。
その整理のあとで、
彼女はあらためて、こう感じたようです。
この強みを、もっと活かせるようにするには、
やっぱりITの知識が必要だ、と。
それは、
不安な状態のまま
「足りないから学ばなければ」と感じていた頃とは、
少し違う手触りなんだと思います。
強みが言語化され、
どう使うかが見えはじめた状態で求める知識と、
不安なまま手当たり次第に集めようとしていた知識とでは、
向き合い方が変わって行くように見えます。
同じ“IT知識”でも、
目的がはっきりしたことで、
それまでずれていた歯車が、
役割を持って噛み合い始めたようにも感じられます。
何ができているのか。
それを、これからどう使っていきたいのか。
そのために、何が必要だと感じているのか。
それらが、ひと続きで見えるようになり始めたのではないかと思います。
整った理由は、
考え方が変わったからでも、
自信がついたからでもない。
言葉になり、使うと決めたから。
そんな風にぼくには、見えました。
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第5章|独り立ちは、「完成」ではなく「選択」
整ったからといって、
何かが劇的に変わるわけではないと思います。
次の日も、
メールは届き、
チャットは鳴り、
商談の予定は淡々と進んでいく。
ただ、
向き合い方が少しだけ変わる。
わからないことが出てきたとき、
闇雲に調べ始めるのではなく、
「これは、どこで使う知識だろうか」と立ち止まる。
エンジニアに相談するときも、
聞きたいポイントが、以前よりはっきりしている。
書き出すこと。
整理すること。
相談すること。
それらは、
新しく始めた行動ではありません。
これまでも、ずっとやってきたことです。
ただ、
それを「足りない自分を補うため」ではなく、
「自分の強みを使うため」に選び直す。
独り立ちとは、
すべてを一人でできるようになることではないと思います。
どんな関わり方で仕事をしていくのかを、
自分なりに選び始めることなのかもしれないと、ぼくは思います。
前に出る場面もあれば、
つなぐ役割に回る場面もある。
そのどちらもが、
その人の仕事として成立している。
整ったから、迷わなくなったわけではないし、
不安が消えたわけでもないと思います。
ただ、
どこに立って、
何を使って進もうとしているのかが、
自分の中でわかっている。
その状態で動く一歩は、
少しだけ、足取りが違って見える。
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おわりに|立っている場所から、もう一度
前に出ることへの戸惑いは、
何かが足りないから生まれるとは限りません。
独り立ちを始めたとき、
これまでと同じ仕事をしていても、
立っている場所だけが、少し変わります。
その変化に、体や感覚が追いつこうとする。
それだけのこともあります。
今回のセッションで印象的だったのは、
彼女の選択の理由が「不安をなくそう」とか、
「自信を持とう」ということとは
少しだけ違うところにあるように感じたことです。
ただ、
自分がすでにやってきたことを言葉にし、
それを使っていくと決めた。
その結果、
次に必要なものが、自然と見えてきた。
前に進むために、
何かを足さなければならないと感じるとき。
一度、
いま立っている場所を確かめてみるのも、
ひとつの選択かもしれません。
そこには、
まだ言葉になっていないだけで、
すでに動いているものがあることも多いからです。
独り立ちは、
完成を目指す工程ではなく、
自分なりの関わり方を選び続ける過程。
今日の仕事が、
少しだけ違って見えたなら。
それもまた、
ひとつの「整い」なのだと思います。

