はじめに|なぜ今、あらためて「仮想敵」を考え直すのか
最近、組織やチームが少し伸び悩んでいると感じているリーダーの方々と話をする中で、
「仮想敵」という言葉を使う機会が増えています。
チームビルディングの観点で見ると、
チームの方向性を揃えたり、目的意識を持ちづらいメンバーの視線を外に向けたりするために、
仮想敵という考え方は、今も一定の有効性を持っていると感じています。
実際、この考え方によって、チームの空気が変わり、動き出す場面を何度も見てきました。
一方で、最近はこの言葉に対して、どこか引っかかる感覚を持つようにもなりました。
「仮想敵」という表現は、今の時代感や価値観と、少しズレ始めているのではないか。
あるいは、「ライバル」という言葉でさえ、受け取り方によっては不要な緊張や対立を生んでしまうのではないか。
そんな違和感です。
そもそも、私が本当に目指しているのは、外部に基準を置かなくても、
チームが自分たちで考え、修正し、前に進んでいける「自走している状態」です。
その意味では、仮想敵という考え方そのものも、チームの成長につれて必要がなくなるものだと考えています。
とはいえ、仮想敵という考え方そのものを否定したいわけではありません。
問題なのは手法そのものではなく、
その言葉が今の組織やチームに、どのように届いているのか、という点だと感じています。
この記事では、
なぜ仮想敵という考え方がチームビルディングにおいて機能してきたのかを整理しながら、
今の時代や組織のあり方に合わせて、この考え方をどのような言葉に置き換えられるのかを考えていきます。
仮想敵を手放すための記事ではありません。
むしろ、チームを前に進めるために使ってきたこの考え方を、
今の環境に合わせて、あらためて翻訳し直す。
そのための思考整理として、ここに書いてみたいと思います。
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第1章|仮想敵は、なぜチームをまとめるのか
チームの調子が上がらないとき、現場ではさまざまな兆しが見えます。
個々は真面目に取り組んでいるのに、力が噛み合わない。
会議ではそれらしい話は出るものの、決定打に欠ける。
どこか「自分ごと」になりきらない空気が漂っている。
こうした状態の背景には、
チームとしての視線が、内側に向きすぎているという問題があります。
自分たちのやり方は正しいのか。
誰がどこまで頑張っているのか。
評価は公平なのか。
問いの矢印が内向きに集まりすぎると、
チームは次第に動きづらくなっていきます。
ここで機能するのが、「仮想敵」という考え方です。
仮想敵とは、誰かを攻撃するための存在ではありません。
チームの意識を、いったん外に向けるための支点です。
「あのチームと比べて、私たちはどうか」
「外から見たとき、今の自分たちはどう映っているか」
こうした問いが生まれることで、
バラバラだった視線が、少しずつ同じ方向を向き始めます。
心理学の文脈では、人は自分が属する集団を意識した瞬間に、
「私たちは何者か」という感覚を強めると言われています。
外部との比較が生まれると、
内部の違いよりも「共通点」に目が向きやすくなるのです。
チームの黎明期や停滞期において、
仮想敵が有効に機能するのは、このためです。
まだ共通の価値観や判断基準が育っていない段階では、
内部だけで問いを回そうとしても、どうしても限界があります。
だからこそ、一度外に基準を置く。
それによって、チームの輪郭をはっきりさせる。
この意味で、仮想敵は
未成熟な組織にとって、ごく自然に立ち上がる装置だと言えます。
ただし、ここで一つ補足しておきたいことがあります。
仮想敵が「強いから」チームがまとまるのではない、という点です。
大切なのは、その存在が、
メンバー一人ひとりに
「比べてみたい」「負けたくない」と
自然に思わせるだけの質と距離感を持っていることです。
あまりにも遠すぎる存在では、現実味がありません。
逆に、明らかに格下の相手では、競争心は生まれにくい。
手が届きそうで、少し悔しい。
工夫や努力次第で追いつけそうだと感じられる。
そのくらいの距離にある、質の高い存在であることが、
仮想敵として機能するための重要な条件になります。
ここまでを見ると、
仮想敵という考え方が、これまで多くの組織で使われてきた理由も、
それなりに説明がつくのではないでしょうか。
ただし――
この手法には、使いどころがあります。
次の章では、
仮想敵そのものではなく、
それに頼り続けたときに起きる問題について整理していきます。
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第2章|問題は「仮想敵」そのものではない
ここまで見てきたように、
仮想敵という考え方には、チームを前に進める力があります。
方向性を揃え、視線を外に向け、
チームとしての輪郭をつくるうえで、確かに機能してきました。
それでも、「仮想敵」という言葉に違和感を覚える人が増えているのも事実です。
そしてその違和感は、多くの場合、
仮想敵そのものではなく、その使われ方に向けられています。
仮想敵があることでしか動けない。
敵が見えなくなると、途端に空気が緩む。
誰かと比べられないと、自分たちの立ち位置がわからなくなる。
こうした状態に陥っているとしたら、
それは仮想敵という手法が間違っているのではなく、
仮想敵に依存し始めているサインだと考えたほうがよさそうです。
本来、仮想敵は「方向づけのための支点」です。
ところが、それが長く使われ続けると、
いつの間にか「動機そのもの」になってしまうことがあります。
「負けたくないから頑張る」
「比べられているから動く」
こうした状態が続くと、
チームのエネルギーは、少しずつ外部に吸い取られていきます。
さらに厄介なのは、
仮想敵を前提にした関係性が、
チーム内部の対話を減らしてしまうことです。
外に明確な基準があると、
内部で問い直す必要がなくなります。
「どうすればもっと良くなるか」よりも、
「相手より上か下か」という話に寄っていく。
これは短期的にはわかりやすく、
スピードも出やすいのですが、
長期的には、チームの思考を単純化させてしまいます。
また、仮想敵を強く打ち出しすぎると、
リーダー自身が、その役割を背負い込みやすくなります。
敵を設定し、
緊張感を保ち、
温度を下げないように気を配る。
こうした状態が続くと、
チームが回っているように見えて、
実は、リーダーが走り続けているだけ、ということも少なくありません。
ここで大切なのは、
仮想敵を「良い・悪い」で判断しないことです。
仮想敵は、
使えば必ずチームを壊すものでもなければ、
使い続ければ成長し続ける万能な手法でもありません。
問題になるのは、
本来は一時的な支点であるはずのものが、
固定化されてしまうことです。
仮想敵がなくても、
チームとして問いを立てられるか。
外部と比べなくても、
自分たちの状態を言葉にできるか。
そうした力が育つ前に、
仮想敵だけで回し続けてしまうと、
チームの成長は、そこで止まりやすくなります。
次の章では、
この「外部参照に頼る構造」をもう一段引いた視点から整理し、
仮想敵と「教材」という言葉が、
実はどのように重なっているのかを見ていきます。
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第3章|仮想敵と教材は、実はほぼ同じ役割を持っている
ここまでの話を踏まえると、
仮想敵に対して感じている違和感は、
「外部を参照すること」そのものではなく、
その言葉が呼び起こすイメージに向いているのかもしれません。
そこで一度、
「仮想敵」と「教材」という二つの言葉を、
機能の観点から並べてみたいと思います。
仮想敵も、教材も、
どちらもチームの外側に置かれる存在です。
そして、いずれも
「自分たちは今どこにいるのか」
「何が足りていないのか」
を考えるための、外部参照として使われます。
仮想敵の場合は、
「あのチームと比べて、私たちはどうか」
という問いが立ち上がります。
教材の場合は、
「あのやり方から、何を学べるか」
という問いが立ち上がります。
問いの形は違いますが、
どちらも、チームの視線をいったん外に向け、
内側にこもりすぎた思考をほぐす、という役割を果たしています。
この意味では、
仮想敵と教材は、ほぼ同じ機能を持っている
と言ってよいと思います。
では、何が違うのでしょうか。
一番大きな違いは、
その言葉がチームにもたらす感情の方向性です。
「敵」という言葉には、
どうしても対立や勝ち負けのニュアンスが含まれます。
それは、短期的な集中や結束を生みやすい一方で、
緊張感や防衛的な姿勢も同時に呼び起こします。
一方で、「教材」という言葉は、
学ぶこと、取り入れること、改善することを前提にしています。
比較はしても、相手を下げる必要はありません。
自分たちの未完成さを、
そのまま認めやすい表現でもあります。
ここまで見ると、
仮想敵と教材の違いは、
手法の優劣というよりも、
言葉が生み出す感情や関係性の違いだと言えそうです。
もう一つ、ここで整理しておきたいことがあります。
仮想敵と教材は、
機能的にはよく似た外部参照ですが、
どちらが先にチームに作用するかは、
メンバーやチームの成熟度によって変わる
という点です。
まだ自分たちの課題を言葉にできない段階では、
「学ぶ対象」としての教材よりも、
感情が先に動く仮想敵の方が、
入り口として機能しやすい場面も少なくありません。
学ぶ以前に、
まず視線を揃え、温度を上げ、
「自分たちの話」に引き戻す必要がある。
そうしたフェーズでは、
仮想敵が担ってきた役割は、今も有効です。
一方で、
ある程度チームが整ってくると、
対立や勝ち負けの構図は、
思考の幅を狭めてしまうことがあります。
この段階では、
仮想敵が持っていた機能を、
より穏やかな言葉に置き換えた方が、
チームの対話が広がりやすくなります。
つまり、
仮想敵と教材の違いは、
「どちらが正しいか」ではありません。
どのフェーズのチームに、
どの言葉が届きやすいか
という違いです。
ここまで整理してくると、
次に浮かんでくるのは、
こんな問いではないでしょうか。
では、今の時代や環境の中で、
なぜ「教材」という言葉が、
選ばれやすくなっているのか。
そして、
それでもなお、
場面によっては「仮想敵」という言葉を
使わざるを得ないと感じる現場があるのは、なぜなのか。
この問いを手がかりに、
次の章では、
言葉が選ばれる背景そのものを整理していきます。
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第4章|では、今なぜ「教材」という言葉が選ばれやすくなっているのか
それでも、ここまで整理してきたうえで、
どうしても浮かんでくる問いがあります。
今後も、場面によっては
「仮想敵」という言葉を使わなくてはいけないのだろうか。
正直に言えば、
私自身、この問いに明確な「はい」や「いいえ」を
用意しているわけではありません。
ただ、現場に立ち続ける中で、
一つはっきりしてきたことがあります。
それは、
「教材」という言葉が、
多くの場面で“選ばれやすく”なってきている
という事実です。
ここで注意したいのは、
「教材」という言葉が
すべてのチームに通用するようになった、
という意味ではない、という点です。
実際、私が向き合っている現場の中には、
まだ「教材」という言葉がまったく響かないチームもあります。
そうしたチームにとっては、
学ぶ以前に、まず視線を揃えることの方が重要で、
その入口としては、
今も仮想敵の方が機能しやすいと感じる場面も少なくありません。
それでもなお、
社会全体を見渡したときに、
「教材」という言葉が選ばれやすくなっているのには、
いくつかの背景があるように思います。
一つは、
対立や競争を前面に出し続けることの
限界が見え始めていることです。
変化のスピードが速く、
正解が一つに定まらない環境では、
勝ち負けを軸にした比較だけでは、
前に進みにくくなってきています。
もう一つは、
組織やチームに求められる役割そのものが、
変わりつつあるという点です。
個人の成果を積み上げるだけでなく、
学び続ける力や、調整し続ける力が、
より強く求められるようになってきました。
こうした環境の中では、
「敵に勝つ」という表現よりも、
「何を学び、どう取り入れるか」という表現の方が、
チームの思考を広げやすくなります。
つまり、
「教材」という言葉が選ばれやすくなっているのは、
それが正解だからではなく、
今の時代や環境において、
誤解や摩擦を生みにくい表現だから
だと言えるのかもしれません。
ここまで整理してくると、
仮想敵と教材の関係は、
どちらかを選び、どちらかを捨てる、
という話ではなくなってきます。
大切なのは、
「どの言葉が、このチームに届くのか」
そして、
「その言葉は、今のフェーズに合っているのか」
を見極め続けることです。
仮想敵という言葉を使う場面が、
これからもゼロになるとは思っていません。
ただし、それは
使いやすいからでも、慣れているからでもなく、
その言葉が、今このチームを動かすかどうか
という一点で判断されるべきものだと思っています。
次の章では、
こうした外部参照そのものを、
どのように扱っていけばよいのか。
仮想敵や教材を「手段」として使いながら、
最終的にどこを目指しているのかについて、
あらためて整理していきます。
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第5章|外部参照は、あくまで一時的な支点である
ここまで、
仮想敵や教材といった「外部参照」が、
チームを前に進めるうえで果たしてきた役割を整理してきました。
あらためて強調しておきたいのは、
私は、これらがゴールだとは思っていないという点です。
仮想敵も、教材も、
チームが自分たちの状態を捉え直すための支点にすぎません。
視線を外に向け、比較し、気づきを得る。
そのプロセスを助けるための、一時的な装置です。
支点があるからこそ、
チームは動き出しやすくなります。
内向きに閉じていた思考がほぐれ、
共通の話題や基準が生まれる。
これは、特に立ち上げ期や停滞期において、
とても大きな意味を持ちます。
一方で、
支点は、使い続けることを前提にしたものではありません。
外部参照がなくなると動けない。
比べる相手がいないと、自分たちの位置がわからない。
そうした状態に入ってしまうと、
チームの判断や成長は、どうしても外に委ねられてしまいます。
本来、チームが少しずつ力をつけていく中で、
外部参照の役割は変わっていくはずです。
最初は、
「外を見ることで、ようやく自分たちが見える」状態だったものが、
やがて、
「自分たちの中で問いを立てられる」状態へと移っていく。
この移行が起き始めたとき、
仮想敵や教材は、
前に出る存在である必要がなくなっていきます。
大切なのは、
いつ、どのタイミングで、
外部参照の比重を下げていくかです。
それは、
明確なチェックリストで判断できるものではなく、
チームの会話の質や、
問いの立ち上がり方、
リーダーがいなくても回り始める小さな動きの積み重ねの中で、
少しずつ見えてくるものではないでしょうか。
そして、
この外部参照の有無や強弱をどうコントロールするかが、
自走できるチームをつくっていくうえでの
リーダーの役割の一つではないかと私は思っています。
仮想敵を置くか。
教材と呼ぶか。
その選択そのものよりも、
その言葉が、
今のチームにとって
「前に進むための支点」になっているのか。
それとも、
「立ち止まり続けるための拠り所」になってしまっているのか。
この違いを見極め続けることが、
リーダーやコーチに求められているのではないでしょうか。
⸻
おわりに|本当に目指しているのは、外部を必要としない状態
この記事では、
仮想敵や教材といった言葉を入り口に、
チームが前に進むときに
「何を外に置くのか」について考えてきました。
ただ、ここまで書いてきてあらためて感じるのは、
本質は言葉そのものではない、ということです。
仮想敵という言葉を使うかどうか。
教材という表現に言い換えるかどうか。
それよりも大切なのは、
今、このチームが
外部にどれくらい頼る必要があるのかを、
リーダーが感じ取れるかどうかだと思っています。
外部を強く置いた方が前に進むフェーズもあれば、
少しずつ手放した方が、
チームの思考が育つフェーズもあります。
そのどちらが正しいかではなく、
今どちらが必要かを見極め、
必要に応じて調整していく。
その繰り返しの中で、
チームは少しずつ自分たちの足で立ち始めます。
外部を見なくても、
自分たちで問いを立て、
ズレに気づき、整えていける。
私がこれからもやっていきたいのは、
そんな状態に近づいていくプロセスに、
伴走し続けることです。
あなたのチームは今、
仮想敵を必要としているフェーズでしょうか。
教材を置いて学び始めるフェーズでしょうか。
それとも、
外部参照を少しずつ手放し始めるフェーズでしょうか。

