はじめに|「言っているのに、伝わらない」
「ちゃんと伝えたつもりなのに、なぜか伝わらない」──。
そんな感覚を抱えたまま日々を過ごしているリーダーは少なくありません。
上司には、現場の課題や限界を言葉にして伝えている。
メンバーにも、社長の意図をできるだけ丁寧に説明している。
どちらにも誠実に向き合っているのに、なぜか誤解されたり、
“わかってもらえない”まま話が終わってしまう。
声の大きさの問題でも、説明力の問題でもない。
それはむしろ、組織の中で立っている位置がそうさせている。
上と下のあいだに立つ人ほど、言葉が空中でほどけていくような感覚を抱く。
支える立場のリーダーが感じる「伝わらなさ」は、
怠慢でも無関心でもなく、誠実さの副作用なのかもしれません。
先日、とある社員数百名規模の企業で取締役を務める方との
コーチングセッションの中で、彼女が抱えるジレンマを聞くことがありました。
「上にも下にも伝わらない」と語るその言葉の奥には、
長く続く努力と、静かな諦めが同居していました。
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現状の構造|上にも下にも「中継するだけ」のポジション
その取締役の彼女は、社長の言葉を現場へ、
現場の声を社長へと橋渡しする役割を担っている。
日々、経営会議と実務のあいだを往復しながら、
どちらにも混乱が生まれないように気を配り続けている。
社長から新しい方針が下りると、彼女はまず内容を整理し、
現場にどう伝えるのが最も理解されやすいかを考える。
会議資料を整え、言葉をやわらげ、
時には「社長の意図」を代弁するような形でメンバーに話す。
一方で、現場で生じる課題や不安を社長に届けるのも彼女の仕事だ。
「この仕組みでは運用が難しそうです」「今の時期に実施するのは負担が大きいかもしれません」
──そんな現場のリアルを慎重に伝えるが、
返ってくるのは「いや、それはできる」「やるしかない」という言葉。
社長には、現場の戸惑いや混乱が“やればわかるはずのこと”であったり、
“覚悟の足りなさ”に映っているようだ。
けれど、彼女には**“見え方のずれ”に見えている。**
気づけば、自分の言葉がどちらにも届かないような感覚が残る。
経営の近くにいながら、意思決定には関われない。
現場を理解しているのに、裁量を発揮できない。
社長は現場の未熟さを感じ、
現場は社長の“方針がコロコロ変わる”ように見えて苛立っている。
そのあいだに立つ彼女は、どちらの言い分も理解できるがゆえに、どちらからも距離を置かれる。
ときに社長の意図を代弁すれば、現場から反発を受け、
現場の声を拾えば、社長から「言い訳に聞こえる」と言われる。
だからこそ、一番誠実に立ち回っているのに、いちばん板挟みになる。
この立場の孤独は、静かだけれど、深い。
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内省|「伝わらない」には3つのパターンがある
彼女が感じている「伝わらなさ」は、
単に言葉の選び方や伝達手段の問題ではない。
その根っこには、**立場によって異なる“伝わらなさの構造”**がある。
そしてそれは、大きく三つのパターンに分けられる。
① 上に伝わらない──現場のリアルが、理想の中で薄まる
社長は、会社全体を動かすための理想やスピード感を大切にしている。
だから、現場の課題を聞いても「やればできる」と返す。
そこには、成長への信念もあれば、現実への鈍感さもある。
一方で、彼女が丁寧に言葉を選ぶほど、
その“現場の温度”は、社長の頭の中で抽象化されていく。
結果として、伝えたはずの内容が、意味の輪郭を失っていく。
② 下に伝わらない──社長の意図が、彼女の口を通して弱まる
彼女は、社長の方針をできるだけ柔らかく、誤解を生まないように伝えようとする。
けれど、その“配慮”が意図の鮮度を下げてしまう。
現場のメンバーには、「また上からの指示か」としか届かない。
伝えようとすればするほど、言葉が摩耗していく。
③ 自分にも伝わらない──“考えること”を自分の役割としていない
上にも下にも橋をかけ続けるうちに、
「自分はどうしたいのか」「どうすべきなのか」を言葉にする機会が少なくなっていく。
社長の意図を理解し、現場の状況を整理する──
その“翻訳”の仕事に意識の大半を使っているからだ。
彼女は、経営の意図を正確に伝えることが自分の役割だと信じている。
だから、自分の意見を明確にする必要をあまり感じていない。
仮に「どう思う?」と問われても、
経営の全体像を描くための視点や経験がないまま、
自分の言葉を整えることができずにいる。
誠実に動いているのに、
その誠実さが“自分の意思”を育てる方向には向かっていない。
ここに、彼女が抱える“伝わらなさ”の根がある。
“伝わらない”という現象の背景には、
伝える力の不足ではなく、それぞれが見ている位置の違いがある。
そのズレを整理することが、次に進むための第一歩になる。
その“一歩”とは、何か。
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転換点|“翻訳”から“意味づけ”へ
「社長の言葉をどう伝えるか」──
これまでの彼女の関心は、ほとんどがその一点にあった。
誤解を防ぎ、現場を混乱させないように。
社長の意図を崩さずに、できるだけわかりやすく。
けれど、どれだけ丁寧に“翻訳”しても、
現場が動かなければ、経営は進まない。
彼女はそのシンプルな事実に気づきはじめている。
少しずつ、彼女の中に「伝える」よりも
“どう受け取らせるか”という視点が生まれてきた。
それはまだ言葉にならないけれど、
“翻訳者”ではなく“意味づけを促す人”としての小さな目覚めでもある。
社長の言葉をそのまま伝えるのではなく、
「こう受け取りました。こう動くことで、こんな変化が想定されるので、まずそこまでやります。」
と返してみる。
それは、“意図をくんでもらう”ためではなく、
動いてもらう中で気づきを生み出すための返し方だ。
現場に理解を求めすぎず、
段階的なアプローチで「現場が動く」ことを優先する。
その小さな実践が、やがて“現場が自ら意味づけできる組織”への土台になっていく。
「伝える」から「動かす」へ。
その転換が、彼女自身の言葉に“自分の意思”を取り戻していく第一歩になる。
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結び|「支えるリーダー」に共通する、静かなテーマ
今回の彼女のケースは、決して特別なものではない。
「支える立場」にいる人ほど、
自分の意思よりも、誰かの意図を優先してしまう。
その誠実さが、いつの間にか“自分の言葉の薄まり”につながっていく。
けれど、経営やチームが動くためには、
支える側がただの“翻訳者”で終わってはいけない。
言葉の背景を理解し、状況の意味を整理し、
ときに「まずこう動いてみます」と意思を返す。
その小さな対話の積み重ねが、
組織に“考える文化”をつくっていく。
支えるリーダーの成長は、
声を大きくすることでも、立場を強く主張することでもない。
状況の中で、自分なりの意味を見つけ、行動で示すこと。
静かに、けれど確かに組織を変えていく。その姿勢が、支えるリーダーの原点だ。